鏡のような壁
全ての写真:ベン・ディットー
全てのキャプション:ショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコール
あきらめるということは、本当につらい。約1,200mの岩壁の王道ラインを半分以上登ったところ、あともう少しだった。30m先からは、はっきりとしたクラックが山頂までずっと続いている。しかし、そういうものだ。これが僕たちのゲームなのだ。それ以上、挑戦することはなかった。
遠征は2か月前からはじまった。このチームは僕のほかに、25年以上ともに冒険してきたニコラ・ファブレス、過去のセーリング&クライミング遠征に2回参加したクライマー兼写真家のベン・ディットー、セーリングや大岩壁の経験はないが、両方への挑戦を熱望する勇敢なヘッドポイント・クライマーのフランコ・クックソンだ。スコットランドでのボートの準備に7日間、航海に16日間(その間、ほとんど僕は吐き続けていた)、フェロー諸島で嵐が過ぎるのを待つのに5日間、東グリーンランドの流氷がなくなるのを待つのに過ごしたアイスランドでの14日間、果てしないモレーンと不安定な氷河の上を重い荷物を担ぎ何度も往復した10日間、そして脆い岩、危険なスカイフック、長大なランナウトと格闘したクライミングで、肉体的にも精神的にも困ぱいした9日間。
目指すはミラーウォールだった。グリーンランド東岸スコアズビー湾のフィヨルドの奥深く、氷の海に誇らしげに立つ輝く花崗岩の巨大な盾。アプローチは長く複雑で過酷だったが、その1秒1秒を僕らは楽しんだ。
ここまで来られたこと自体が驚きだった。瀬戸際まで追い込まれた不確実な瞬間が数多くあった。ミラーウォールへ向かうハイクの初日、アップダウンの激しい灰色のガレ場と乳白色の氷壁を縫うように進んでいた時、ニコの足元で花崗岩の大石が滑り落ち彼は冷たい水たまりに落下し、すね上部に深い傷を負った。ここでなければ、大したことではなかった。数針縫って治るのを待てばよいだけだ。しかし、ここは最寄りの医療施設さえ数日かかるし、感染の可能性は極めて深刻だった。ニコはこの旅の準備に多大な労力を費やしたにも関わらず、ミラーウォールを見ずに撤退することを迫られた。しかし、ニコは前向きに自分の運命を受け入れ、怪我の回復のためにボートへ引き返し、その間、僕ら3人は、ギアと食料を岩壁の基部へ運び続けた。10日後、ちょうどクライミングを開始する準備ができた頃、ニコの怪我は回復していた。しかし、100kgの荷物を壁に沿って担ぎ上げた2日間の後、傷口に感染症の兆候が現れはじめた。ニコは抗生剤を使い身体を酷使することを避けてポータレッジで待機し、調理や読書、楽器を演奏してやり過ごすしかなかった。
「残る僕らは、ゆっくりと登攀を続けた。40m進むのに9時間をかけ、チェスゲームのような複雑なルート・ファインディングに数日を費やした。そしてブランクセクションをいくつかを突破し、ついに珍しい形をした顕著な右向きの凹角にたどり着いた。しかし期待に反してクラックは完全に閉じており、ピトンもビークも使えない。しかも岩の表面は鱗状になっており、剥がれやすく、砂っぽい。凹角をステミングで20mほど登り、エッジの縁に、恐る恐るスカイフックを掛け、息を止め、ゆっくり体重を預けた。
スカイフックを使う時はいつも、時が止まったように思える。フックが効いてジャガイモ袋のようにぶら下がることができるか、あるいはそうと分かる前にフックが外れるか、エッジが砕けるかして、宙を舞うことになるか。今回はなんとか持ちこたえてくれた。幅4mmのエッジを唯一の支点にしてぶら下がったまま、注意深く岩にハンドドリルを当て、ハンマーを叩いた。1時間後、僕はボルトにロープをクリップすることができた。
4mほど上に、明らかにカムが効きそうなフレークが見えた。ステミングでじわじわ登ると、足元でザラザラした岩が砕ける。はっきりとしたホールドのない、不安定でリスキーな登攀、ボルトがだんだん遠ざかっていく。フレークのそばまできたが、残念ながら手は届かない。壁面を必死に探した。
「何かないか」。フットホールドでも、エッジでも、結晶でも、何でもいい。 だが、何もなかった。
そのまま登るしかなかったので、フレークやボルトから遠ざかり、ステミングで登り続けた。声を出して自分を鼓舞し、不確実な暗い海を、深く、より深く、恐怖でマヒして登れなくなるまで進んだ。ふくらはぎが悲鳴を挙げ、体が震えた。見上げても、そこに目指すべきものはなかった。下を見れば、ボルトは遥か彼方だ。自分の悲鳴を聞いた時には宙を舞っていて、10mほど下でロープにぶら下がる羽目になった。
2日間、僕はこのセクションに何度も挑戦し、ゾッとするようなフォールを繰り返した。一度は岩壁にぶつかり足首が青く腫れ上がった。幸い、痛みは少なく、クライミングは続けることができた。エイドクライミングを試みたが、どのエッジもスカイフックに体重を載せようとしたとたんに崩れてしまう。コパーヘッドはザラザラした柔らかい岩に食いつかないし、ペッカーは跳ね返された。万策尽きかけていた。
たぶん、2本ボルトを連続して打ち込めば、あのフレークに届くのではないか。あるいは、それでも届かなくて、もう1本ボルトを打ち込まなければならないか。さらに、たぶん少し登ると、またブランクセクションがあり、それは前のものよりも少し長くて、ボルトラダーをさらに長く設置することになるかもしれない。僕らには分からなかった。
常にできるかぎりボルトの使用を避けようとしてきた。僕らの初登ルートには、ほとんどボルトは使われていない。ミラーウォールには、フリークライミングのためのエッジはあるが、全体としてはクラックやシームがなく、ナチュラルプロテクションが効く場所はかなり限られる。登るためにはボルトを打ち込まなければならないことは分かっていた。
ラインホルト・メスナーは、1971年のエッセイ『The Murder of the Impossible』(不可能なことの殺害)で「ボルトと一心不乱さがあれば何でも登れる」と書いている。手の届く範囲にボルトラダーやボルトがあれば、ツルツルの岩面でも何とか登ることができる。しかし僕らにとって、それでは何もない壁面で不合理な登攀を強行する意味がない。ミラーウォールの基部に立ち、僕らはボルトを次から次へと設置しないことに決めた。ボルトには一定の間隔を設けるべきで、その間はフリークライミングまたは困難なエイドクライミングのいずれかになる。たぶんこれは主観的な問題であり、スキル、体力、勇気に大きく左右されることかもしれない。しかし、不可能を可能にしたくないのであれば、一線を画さなければならない。ある意味、不可能こそがクライミングを価値あるものに仕立てあげる。登れない壁もあるという事実、そのために人は夢を見続ける。
クライミングは人生と同様に価値観を伴うゲームだ。これらの価値観は恣意的で、完全な決まりごとであり、作り上げられたものである。しかし、それこそがクライミングに本質なのだ。そこに全てを超える頂点などない。挑戦を生かし続けなければならない。そして、失敗にもチャンスを与えなければならない。