FFFKT*
*シエラ・ハイルートでの山登りと魚釣りの既知最速記録
私がビショップのレンジャーステーションで偶然この本を手にしたのは、2012年のことだった。そこにいたのは許可証を入手するためで、翌日からスタートするジョン・ミューア・トレイル(JMT)横断で、男性の最速記録を破る企てをなんとか公式なものにするためだった。その後、この本はある意味で私の一部となった。高校生のときにランニングをはじめて以来、私の手首から離れない20ドルのプラスチック製の腕時計と同じように。ある日そこになかったと思えば、またある日には存在するというように、永遠に。
なぜこの本を手に取ったのかはわからない。そのとき読む気はまったくなかったのだから。その後4年間、夏のあいだはずっとJMTの虜だった。私は本に17ドルを費やすタイプではない。とくに本棚に置きっ放しになるとわかりきっているガイドブックには。本は所有するものではなく、借りたり、貸したり、シェアしたり、意見を交わしたりして、徹底的に使うものだ。冴えない本の表紙には、『シエラ・ハイルート森林限界線の横断第2版スティーブ・ローパー』と書いてある。
タイトルは写真の上に印刷されていて目立たない。写真はピンぼけだったり悪い構図ではないものの、ただ鮮明さに欠け、まるで視力のひどい人が撮ったような感じだ。
そこには風に打たれた1本の木が、お決まりの構図の原則どおりに中央右側に配置されている。そして岩がいくつか。ボルダリングには小さすぎ、座れるほど平らではない。遠景には(といってもイワシの缶詰ほどの奥行きしかない写真だが)ぼやけた山の稜線が見える。それはミナレットの切り立った峰々なのだが、むしろ遠方にいるクジラの背中を眺めているような感じだ。
さらに山の上の空が、この写真にとどめを刺す。
それは灰色の海のような曇り空。ジョン・ミューアが親しみを込めて「光の山脈」と呼んだシエラを訪れたことのある人なら誰でも、これが記憶とはほど遠いことがわかるだろうし、まして本の表紙に選ぶような空ではない。シエラ・ネバダの白熱の空は決して、この本の表紙がほのめかすような控えめな淑女などではない。彼女は目立ちたがりで、威嚇的で、大声で叫びまわるタイプなのだ。圧倒されるような紺碧ではじまる1日は、午前10時までには危険な浮気者となって、胸からムクムクと積雲を吹き出す。大抵はお遊びだが、いったん攻撃をはじめると身の毛もよだつような怒り狂った嵐を解き放つ。
同規模の山脈のなかでは、頻度は少ないとはいうものの。私はシエラで遭遇した夏の嵐ほどひどい嵐を、他の山で体験したことはない。
いずれにしてもこの本の表紙は、輝かしい日でもなければ激しい嵐でもない、退屈の極みだ。誰もが「見て見て!」と叫んでいるご時世に、スティーブ・ローパーのシエラ・ハイルートの第2版は、まるで見過ごしてくれることを密かに祈っているようだ。あるいはハイルートの下にある、私にコンパスを調整したかと聞く人は理解していない。東の方角をしばらく目指すとき、調整は何の役にも立たないから。超人気のJMTに行ってくれと。幸いにも、ほとんどの人はそのとおりにする。毎年、ひと握りの人間以外は。
そして私は2018年の夏に、そのひと握りの人間になることを決めた。
当時、ものごとはうまく行っていなかった。真実を語るなら、長いあいだうまく行っていなかった。私はボーイフレンドと別れた。彼は私を愛してはくれたが、私の欠点のすべてをも愛してはくれなかった。そしてバンを買った。そのときはそれがカッコイイことに思えた。とは言っても、そのバンは「夢の実現」を思わせるようなおしゃれなバンではなかった。とても小さく、見た目も走りも、まるでトースターにタイヤを付けたような代物だった。それから脚の骨を折った。2度も。
大概の場合において、私が本領を発揮するにはちょっとしたカオスが必要だ。だから100マイル走レースでキャリアを築くことができたのは、それが予測不可能だったことにある。若いころからパンクロックを聴くのが好きな私に、ある友人は「ジェントロピー」というあだ名をつけた。宇宙の原則に関する「エントロピー」という語のもじりで、いつも何かを作り出すときよりも、何かを破壊してみせるときのエネルギーの方が少ないからだ。秩序ではなく、そのカオスこそが、すべてのシステムが傾く理由だ。けれどもこの10年間、私は傾きすぎたような気がする。
しかし私には止めるという考えが浮かんだことはなかった。事故で脚に2度目の骨折を負ってから1年半が経ち、5分ぐらいは走れるようになったが、その後の痛みは強烈だった。耐えがたいほど退屈なリハビリや歩くことを脚に教え直すための筋トレに、何時間も費やした努力はまったく実らなかったというわけだ。
私は親友にテキストメッセージを送った。私が事故を起こしたときその場にいて、救助隊を呼んでくれた人だ。救助隊に面と向かって、私がスキー板なしでは下山しないことを伝えた人だ。そして病院に毎日見舞いに訪れ、退院後は自分の家のベッドを解放し、私を療養させてくれた人だ。
「タオルを投げるときが来たと思う」
彼女はすぐに返事を送りかえしてきた。まるで雪山で転倒した私を見つけて以来、この瞬間に備えてきたかのように。
「がんばって闘ってきたんだから、それでもいいよ」
「ちゃんとした仕事に就くときかもね」
沈黙。
「9時5時の仕事をするようになったら、きっと1年で死ぬと思う」送信ボタンを押すと、私は電話をバンの床に落とした。昔の私だったら、森に向かって電話を放り投げただろう。昔の私だったら、大声で叫んで、何かにパンチして、泣いて、ビールを1本か5本飲んだだろう。昔の私だったら、100マイルを15時間以下で走って、いまの世に存在するほとんどのランナーよりも遠くへ速く走ることを本職にしただろう。昔の私は、大胆不敵だったけど、ちょっと嫌なやつでもあった。
自分を崩壊させる過程でいちばん良かったのは、すべての固執を解放しなければならなかったことだ。そこにはベッドで過ごした最初の3か月があった。友人たちは、それほど重度の怪我をしたら鬱病のあらゆる段階を経験することになるだろうと忠告した。やや陽気な性格の友人は、ついに本を書く時間ができたねとなだめた。ある別の友人は、私がついにレズビアンであることを悟るだろうと言った。私は何に対しても心構えができていた。
けれども毎日目が覚めて、そしてすべてに問題がなかった。私は驚いた。背後に暗雲が近づいているのではないかと振り返ったが、何もなかった。そこにはただ、友人の客用寝室の白い壁があるだけだった。そして私はそれまで感じたことのない何かを感じた。静寂だ。私は何日も、ただ息をして過ごした。何か生産的なことをすべきだとはわかっていたが、呼吸するだけで十分にも思えた。
電話が鳴り、沈黙が破られた。「たぶん最初の金曜日までもたないわよ」
その夜、走ることをやめた夜、私はあの本を開いた。そうするか、仕事を探すしかなかったからだ。それは3年間、車のなかに置きっぱなしになっていた。不思議なことに、それまでに所有した数百冊の本のなかで手放さなかった、唯一の本だった。そこから、ローパーとの空想の友情がはじまった。
シエラ・ハイルートはおおよそ以下のカテゴリーに分かれる。
スタート:シエラ・ネバダ山脈西側の高地砂漠にある「ローズ・エンド」キャンプ場。最近隣の街はフレズノ。
概要:森林限界と高山帯のあいだを上下しながら、できるかぎり谷に降りるのを避けて、シエラ・ネバダ山脈の稜線をたどる。
距離:標高差約18,000メートルをともなう、約314キロメートル。
目標:大半は地図に名前の載っていない、34のすべての峠を越える(このなかにはローパーが名づけた峠もある)。
難度:岩から岩へ飛び移り、ガレ場を滑り、岩場をよじ登りながら進む。ロープやロッククライミングの技術は不要(しかしルートから1メートル以上離れると危険度が増す)。
実際の難度:ローパーは地図上にルートの線を示していない。ハイルートのハイカーは山の峠に立ち、ローパーの漠然とした説明を読んで、最も安全な下降ルートを探さねばならない。また遠方に見える無数の峠のなかから、ローパーの文章による描写にしたがって、次に目指すべきひとつを見極めることも必要とされる。
醍醐味:ローパーとの妄想的な友情。ローパーの説明にしたがってA地点からB地点へ移動するのは、ハイルートのハイカーにとっての命綱である。この本を参照する誰もがローパーを特別な存在とみなし、“彼”と呼ぶのはそのせいだ。たとえば「“彼”があのムカつく湿地で見た雄ジカについてうだうだと詩を吟じるのを止めて、クラス4の死の岩盤を避けるために左に迂回する必要があることを書いてくれればよかったのに。でもそれ以外は、“彼”の説明は昨日に比べたら今日はマシだった」というように。ローパーとのこの関係は熱狂的な愛情、苛立ち、そしてさまざまな度合いのストックホルム症候群の不変の循環である。
通例:全ルートを制覇するハイカーは毎年約10人。ルートは5つのセクションに分かれ、毎夏1つのセクションを終えるのは60人弱。1つのセクションは約1週間を要し、数日間、他の人間にはまったく出会わないのが普通。
ゴール:ヨセミテ国立公園北西部の境界にある「モノ・ビレッジ」という大衆向けのキャンプ場。ハイカーはそこで安ビールやポテトチップス、古いバナナなど、王者にふさわしいご褒美を買うことができる。
私は完璧に魅了された。
私には孤独の反対が何を意味するのかよくわからない。それを表す言葉や言語は存在するのだろうかと、よく考えたものだ。私が思いついたもので最も近いと思われる定義は、自分の内なる空間がすべて満たされた感覚。山はいつも私にその感覚を与えてくれた。ベッドでの睡眠も。それ以外にはない。
私はローパーが好きで、ローパーにも私を好きになってほしかった。彼はある山脈全体をどうやって横断するかという本を1冊書きながら、実際にどこへ行けばよいかという実用的な情報はかぎりなく少ししか提供しない男だ。谷底で川を渡るように教え、それからほとんど人の通らない何キロもの道のりを歩いて次の峠へ到達するために、こんなことを言う。「東へ向かって進め。最終的には崖の赤っぽい地層を目指して」しかし役立たずの情報に関してはもっと協力的となる。たとえば雄ジカの話のように。あるいはお気に入りの木、アメリカシロゴヨウの話となると、丸1ページを費やして説明してくれる。
彼を弁護するならば、それはたしかに魅力的な木だ。アメリカシロゴヨウは高山では屈んだように背が低く、曲がりくねって育つ。ときには花崗岩から直に生えているようにも見える。その木々から落ちた針葉の上にはジョン・ミューアも眠り、産業界が作るどんなスリーピングパッドやマットレスにも勝る寝床を提供する、とローパーが読者に伝えたのは早とちりだった。それはいい情報となり得るかもしれない。なぜならローパーの乏しい説明に頼る読者たちが海原のように広がる高山帯で迷い、そこで数泊以上を強いられるのは間違いないからだ。アメリカシロゴヨウの枝の下に身を屈めて風を避け、翌日の日の出を待ち、東の方のどこかに潜む赤っぽい崖をまた探すために。
アメリカシロゴヨウに捧げられた1ページこそ、私がスリーピングパッドを持参しないことを決めた理由だった。そしてこれは悪い考えだった。この選択によって、私は生涯で最も長く寒い類の夜を経験することになった。けれども私はローパーを責めない。ローパーは無意識にジョン・ミューアの誤った情報を中継していたからだ。私は歴史家ではないが、シエラ・ハイルートで夏中を過ごしたあとには、ミューアはアメリカシロゴヨウの落ち葉の上では眠らなかったと言える権利がある。なぜなら花崗岩の上に直に寝るのとの唯一の違いは、朝になると肌に尖った松葉の跡がたくさん残っているということだけだから。あのろくでなしは温かいマットレスを作るために木の枝を全部切り落としたのだ。「立つ鳥跡を濁さず」以前の時代に生きた人なんだから仕方がない。ただ言いたいのは、この情報の省略のおかげで私は死にそうになったということ。
その夜、私はローパーの本を読み終えた。そして翌朝には計画ができていた。夏のはじめルートの最初の部分を偵察としてハイキングする。夏の終わりには脚がよくなっているかもしれない。もしすべてがうまく行けば、ルート横断の最速記録に挑戦できる。もしうまく行かなければ、そのときはそのときだ。私はもうひと夏を山で過ごすことになる。絶望するほど道に迷って寒さに襲われながらも、内なる空間はすべて満たされて。
私には現実の友だちもいる。そのひとりがモーで、私は彼女の本棚にもローパーの本があることを知っていた。この15年間シエラの東側にあるマンモス・レイクスで暮らしてきたが、夏の終わりにミシガンに引っ越してジャーナリズムを教える仕事に就くことになっていた。それで夏のはじめの1週間、地元の山で有終の美を飾るべくハイルートの最初のセクションを一緒に偵察しようと誘うと、モーは喜んで話に乗ってきた。
「だけど『ファストパッキング』という用語だけは禁句だからね」というのが、彼女の唯一の条件だった。「そもそもそれって、いったいどういう意味なのよ?」
モーもやはりランナーで、ほんの数か月前、私が脚から金属を取り除いたちょうどその日にボストン・マラソンを55位で完走していた。モーは決してのろまではない。それでも、私の質問にはまったく根拠がないわけではなかった。
モーはハーバード大学で修士号を取得していたが、シエラのレッズ・メドウにあるジョン・ミューア・トレイル唯一のレストランで何年もウェイトレスをしてきた。トレイルのセクションをどれだけ速く歩き終えたかを自慢するバックパッカーたちにハンバーガーを出しつづけてきたモーは、ついにエプロンを取ってみずからそれを歩くときは、絶対そういうバックパッカーにはならないと決めていた。むしろその反対に、全行程をどれだけゆっくり進めるかに挑戦したのだ。
1日たったの5キロメートルしか進まない日もあった。途中で食料が尽きたときは、持参した少々のマッシュルームのおかげで食欲が抑えられ、足取りが軽くなり、頭には祈りの言葉がこだましたという。そしてついにトレイルを外れ、全行程のほぼ中間地点にあるミューア・トレイル・ランチに立ち寄ると、シーズンの営業を終えたビレッジは閉店の準備中だった。商品棚を片づけていた従業員がサンドイッチを作ってくれると、モーはものすごい速さで平らげた。それを見た従業員はさらにもう2つのサンドイッチを作り、無料で提供してくれたそうだ。
「ねえ!このタープいいでしょ?」と、私は近くでキャンプをしている男に聞いた。彼はうん、と答えた。
それは私たちの初日の夜で、本当は人の多いこのトレイルを通り過ぎてハイルートにある誰もいない高山湖の畔でキャンプをしたかったのだが、正午の出発というスタートの遅さが、そのプランを台無しにした。
4泊5日を一緒に過ごし、モーが去ったら私はその後6日ひとりで歩きつづける予定だった。太陽が沈んでから30分ほどが過ぎ、私たちはすでに持参したテキーラのすべてを飲み干していた。旅の初期で物資を過剰消費するなんてまさに新米の過ちだったが、モーがベアバッグに忍ばせていた甘酸っぱいグミが絶好のつまみになり、バックカントリーではお祭り気分にさせてくれるそんな驚きのおかげで、ついお酒がすすんでしまったのだ。
「このタープ、ホントに最高だわ」と、私は木にもたれかかって満足げに言った。タープが不十分なのは明らかだったが、それを心配するには私はあまりにも気持ちよく酔っ払っていた。
その5日後、私はモーに別れを告げた。寂しくなるのはわかっていたが、私にはまだローパーがいた。彼の言葉が私を導いてくれるはずだ。私はびっこを引きながら北へと進んだ。
主要トレイルを離れると、その後4日間は人の姿を見なかった。私にはトレイルでもう1日過ごすのに十分なだけの食料しか残っていなかった。翌日は長距離になり、食料が尽きることはわかっていたが、レッズ・メドウのやさしい地形では楽に進めるはずだ。そしてそのレッズ・メドウでかつて働いていたモーが、そこへ迎えに来てくれる予定だ。もし次の2つの峠(その2つ目をローパーは「シャウト・オブ・リリーフ・パス(解放の叫び峠)」と呼んだ)を日暮れ前に越えることができれば、そのあとはこれまでの10日間に比べれば朝飯前となるに違いない。
私は頭を垂れ、傾斜のきつい約6キロ半のセクションをがんがん登った。ルート探しをせずに進めるという贅沢を満喫しながらも、トレイルが私のびっこの足音を前よりもよく響かせているのに気づいた。そしてガサッという音が聞こえて頭を上げると、そこには男が立っていた。私は殺されんばかりの大声で叫んだ。男も殺されんばかりの大声で叫んだ。
「あんたが最初の人間だよ、この4日間で見たのは!」
「あんたが最初の人間だよ、この4日間で見たのは!」
私たちは数分間お互いを凝視し、アドレナリンが静まるのを待った。そして彼が沈黙を破った。
「ハイになって、チョコレートがけのエスプレッソビーンズ食べたい?」
私は次の2つの峠を越す必要が本当にあり、もし正確にルートを選んだとしても、ぎりぎりになることはわかっていた。そしてローパーと2人きりになってからは、1度も正確なルート選びに成功していなかった。しかも、私はマリファナがあまり好きではなかった。
「もちろんよ」
私たちはガマガエルのようにハイになり、彼の食料のなかにあったすべてのお菓子を食べ尽くした。私がふたたび出発しようとすると、雨粒が落ちはじめた。彼は2つ目のボウルをバックパックにしまった。私は自慢げにタープを広げた。
「もし岩が濡れてたら、次の2つの峠を今夜中に越えられると思う?」と私は聞いた。彼はハイルートを南から北へ進んでいて、それらの峠を越えてきたばかりだった。
「急げばできるかもしれないけど、安全とは言えないね。“彼”は高所にとどまって峠のあいだをたどれって言うけど、それは危ないよ」
「でしょ?“彼”は不可能に見えるけど行けって言うのよ。そういう崖を全部抜けるルートが見つかるからって。だから私は岩が濡れてるのを心配してるわけ」
普通なら、私は知らない人から薬をもらったりしない。でもこの男はまったくの他人ではなかった。私たちはお互いの名前もまだ知らなかったが、ローパーの説明にしたがおうとする経験談はすでに交換しはじめていた。さらに私たちは2人ともローパーのことを“彼”と呼び、それは私にチョコレートとマリファナをくれたこの男が善人であることを知るには十分だった。私たちは同じ神を崇拝していた。「死なずにシャウト・オブ・リリーフ・パスに着ければ、あとは楽々さ」
雨が止むと、私は彼にチョコレートと草のお礼を言った。砂糖を11日間も摂取していなかったせいで、世界のてっぺんにでもいる気分だった。そして、これまでなぜマリファナに抵抗があったのかと不思議に思った。私は2つの峠を越えた。まったく問題がなかったわけではないが、最後の数日に何が問題だったのかを再定義する方法を学んだ。通過できない崖を再定義する方法を学んだように。そしてシャウト・オブ・リリーフ・パスに着いたとき、難所のすべては終わったと知り、気分も軽くなった。ついにすべての崖を抜けた私は、峠の最高点に立った。眼下には緩やかな下り坂が緑の谷へ向かって伸びていた。私は「ヤッホー!」と叫んだ。やったのだ。あともう1晩惨めな夜を過ごせば、最終日には簡単な地形が残されているだけ。
私は最後のカロリーとなるクスクスを峠の上で料理した。そしてお湯を沸かすあいだ、ローパーが次のセクションについて何を言わんとしているかを見に行った。そのときだった、本がなくなっていることに気づいたのは。
私は世界でいちばん幸せな娘から、最悪に落ち込んだ気分へと突き落とされた。スキーブーツのなかで骨が折れたときよりも、ひどい感覚。痛みなしに走ることはもうできないかもしれないと思ったときよりも、ひどい実感。
私は山にいて、完全に孤独だった。ローパーを失ってしまった。私はそんなに失くしやすい物であった本を罵った。ルートの魂は山を速く進むことではなく、山で迷うことにあるのだとわかっていた。道に迷うのはへっちゃらだった。私はただ、“彼”の言葉に寄り添っていたかたった。それがいかに役立たずであったとしても。
昔の私なら、この不満に耐えきれずにクスクスを崖から南へ突き落としただろう。でも新しい私は、それを静かに噛みつぶした。食事を終えると私はバックパックを詰め直し、大声で叫びはじめた。そして、何度も何度も叫びつづけた。すべての叫びは昨年から出てきたものだった。それがはじまりを告げる解放の叫びでなかったとしたら、終わりを告げる解放の叫びだったのだろう。
私に指図するボスはもういなかった。ただ1本の足をもう1本の足の前に出し、自分がいいと思う方向に進むだけ。
私の足元に敷かれた岩と野草花の絨毯は、やがて谷へと広がることを知っていた。もしヤナギが目に入ったら、それは私を川へと導く印で、それをなんとか渡る方法が見つかれば、レッズ・メドウとモーにたどり着けることも。私には誰かの雄ジカの思い出や、架空の赤っぽい崖への行き方などは必要なかった。自分(と胃袋)が望むよりも時間がかかるかもしれないし、エゴが望むよりは間違いなくずっと時間がかかるだろう。でも最後にはすべてがうまく行くのだ。自分自身で道に迷ってもいい。
私はお気に入りのマーズ・ヴォルタの歌詞を思い出した。「You’ve got to lose it to find it.(それを見つけるためには失わなければならない)」もしかしたらそれが、孤独の反対を意味するものなのかもしれない。
このエッセイはSeptember Journal 2019に掲載されたものです。