該橋は、明治20年(1887年)4月25日開通の橋梁である。
全長571.0m
初代橋梁は、C.A.ポーナル(C.A....
続きを読むW.POWNALL)(生没不詳)設計に依る
英國パテントシャフト(PATENT SHAFT&AXLETREE Co.Ltd)社製
錬鐡製下路ダブルワーレントラス構桁 支間63.4m(200ft)×9連
が架橋された。
該橋梁架橋工事は、明治18年(1885年)に着工し、明治20年(1887年)4月に竣工した。
該橋梁本体は錬鐡製ピン組構造で、橋台、及び、橋脚は、コンクリートを充填した鋳鐡鉄管組合構造だった。
然るに、明治24年(1891年)10月28日6時37分頃、該地方を襲った、根尾川上流域を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)に依り、橋脚数基に折損被害が発生したが、構桁本体は蛇動状態となったが、該河川への落橋は奇跡的に免れた。
直ちに、復旧工事に着手したが、橋台、及び、橋脚に対し、鋳鐡組合構造使用は、大地震発生時に於ける激震動に対し、不適当なりと判定され、改めて、橋台、橋脚は煉瓦石積構造で構築された。
更に、明治44年(1911年)には、橋台、及び、橋脚本体補強の為に、煉瓦積増が施工された。
該区間複線化の為に、新橋梁は既成橋梁下流側に架橋された。
米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
鋼鐡製下路ピン結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×9連
が架橋された。
木曾川-岐阜間は、大正2年(1913年)1月31日に複線化されたが、該日より、新設橋梁は下り線専用になり、既成橋梁は上り線専用になった。
内閣鐵道院は、次世代大型蒸気機関車18900型(C51型)、及び、9900型(D50型)導入決定に伴ふ入線可能対応とすべく、上り線用構桁架替を決定し、該橋梁構桁架替工事を大正3年(1914念)10月24日に着工し、翌大正4年(1915年)4月19日迄に、
米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
鋼鐡製下路鋲結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連
に架替られたが、架替完了時に、折しも、第1次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)(大正3年(1914年)7月28日~大正7年(1918年)11月11日)が勃発し、平時体制から戦時体制に移行した欧米から必要鋼材輸入途絶の為に、該橋梁架替工事は一旦中断を余儀無くさせられた。
残7連構桁架替工事は、該世界大戦終了後たる、大正8年(1919年)2月25日に再開し、同年8月に完成した。
米國アメリカン・ブリッジ(AMERICAN BRIDGE Co.Ltd)社製
鐡製下路鋲結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×5連
国産石川島造船所社製
鋼鐡製下路鋲結合パーカートラス構桁 支間62.5m(200ft)×2連
に架替られた。
因みに、捻出した旧構桁は、
左澤(あてらざわ)線羽前長崎-寒河江間(大正10年(1921年)12月11日開通
最上川橋梁3連
45m(150ft)改造
長井(ながい)線(現 山形鉄道長井フラワー線)鮎貝-荒砥間(大正12年(1923年)4月22日開通)
最上川橋梁2連
45m(150ft)改造
留萌(るもい)本線大和田-留萌間(明治43年(1910年)11月23日開通)
第10留萌川橋梁1連
大正10年(1921年)襲来の台風に依り初代橋梁落橋の代替架橋
30m(100ft)改造
秩父鐵道(ちちぶ てつどう)行田市-武州荒木間(大正10年(1921年)4月1日開通)
見沼代用水路橋梁1連
30m(100ft)改造
に転用され何れも現役で使用されている。
明治42年(1909年)に下り線用に架橋された構桁9連は、ピン組結合故に、損耗が進行した事で保持困難となり、此の為に、昭和28年(1953年)に補修工事が実施された。
日本国有鉄道は、稲沢-米原間直流1500V電化を前に、蒸気機関車が高速運転時に老朽橋梁に対する通過時に於ける負荷効果を確認実験を実施すべく、名古屋地区から東海道本線用大型蒸気機関車配置転換を前に、昭和29年(1954年)12月15日に、名古屋機関区所属のC62型蒸気機関車17号機を使用して、該橋梁上に於いて高速運転試験を実施し、該機は最高速度129kを記録した。
然るに、大多数の文献に拠れば、該橋梁上に於ける蒸気機関車最高速速度達成かの如き記述を散見するが、事実誤認も甚だしく、実際には、戦前から、東海道本線優等列車に於ける、運転遅延に対し、直線区間が連続する幸田-岡崎間、安城--大府間、枇杷島-岐阜間等々に於いて、遅延回復の為に、C51型、C53型、C59型旅客用蒸気機関車牽引で満員状態の12~15両編成旅客列車が、該機関車取付機械式速度計最高速度120kmを超過して運転するなど日常的に行われていた。
該橋梁構桁老朽化は補修程度では修理困難と判定され、新下り線用橋梁は、昭和33年(1958年)に架替られ、上り線用新橋梁は、旧下り線用橋梁位置に架橋が決定し、橋脚は改築されたが、橋台再用の上、昭和46年(1971年)に架替が実施された。
該河川内に旧上り線用橋脚数本基元数基、及び、橋台が現存する。
木曾川橋梁(きそがわ きょうりょう)
一宮市北方町北方
名古屋鉄道名古屋本線木曽川堤駅 徒歩6分
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投稿日:2016/06/25